真の英雄は、通りいっぺんな偏った思想を超えた先に存在する

 

 

スペインの極右政党が、映画「ロード・オブ・ザ・リング」の勇者アラゴルンが剣を振りかざす画像を、政治ツイートに盗用したとして、アラゴルンを演じたアメリカ人俳優に非難された。

というヤフーニュースをご存じでしょうか?

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この極右政党は4月末の総選挙で、国旗と党の紋章を背中に付けたアラゴルンが、左翼、フェミニスト、LGBT、リベラルなメディア、分離主義グループのシンボルマークに向かって突撃しようとする画像を投稿。「戦いを始めよう」というコメントを添えた。

これを知った俳優が、現地エル・パイス紙に宛てた書簡で「キャラクターを使ってVOXのような外国人嫌いの極右政党のキャンペーンを宣伝するのがいいアイデアだと考えるには、かなり無知でなければならない」と揶揄した…というニュースです。

 

ようするに、このツイートネタを考えた連中は、おそらく原作は「長すぎて最後まで読んでいない」か、映画も「長すぎて途中で寝てたから内容を知らない」のだと考えられます。

ゆえに「われわれは、アラゴルンを極右政党の宣伝に使ってしまうぐらい無知で不見識な者揃いです」という、全く意図していなかっただろうメッセージを世界中に発信してしまったわけですね。

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赤いラインは目盛り付きのメジャーです。

原作は日本語版の縦書き文庫本サイズだと、全部で約15センチほどあります。

物語が文句なしに面白くても、本を読むのが好きじゃないと、この分量の物語を最後まで読み通すのはキツいかもしれません。

ましてや、こういう失態をやらかすと、本を読んでも映画を観ても、内容までは頭に入らなかったらしいなと、有権者や世界中の人々の失笑を買ってしまいかねません。

一般市民が「極右」という名称から感じる印象からすると、イメージとは逆に随分と安直で短絡的なやり方をするものだと、いささか呆れてしまうところです。

発信する側も受信側も無知な若者や学生の集まりだというならともかく、政党の中心メンバーはそれなりに身分や教養があるはずの、いい年齢のおじさんおばさん連中だと思うんですよね。

不見識や物知らずで片付けられるようなシロモノではありません。

誰が思いついたにせよ、仮に、政党の上層部が認可した上で政治ツイートに使ったとすれば、そのあたりのお粗末ぶりも気になります。

 

じつは昨今では、このような不適切な使われ方をしているアラゴルンの画像を見ても、「カッコイイからべつにイイじゃん」としか思わない人々が、年齢や世代に関係なく、世界中で増えつつあるようです。

この極右政党にもそういう人達がいて、映画化もされている有名な小説にカッコイイ剣士(?)がいたから、政党のイメージ戦略に使おうと安易に採用してしまった…なんて経緯だったのかもしれません。

物事の上っ面しか見ないような薄っぺらい理解だと、世界的な名作もアラゴルンも、そんな風に扱われてしまうのかと思えば、怒りを通り越して哀しくなってきますよね💧

 

 

ロード・オブ・ザ・リング》は、著名なSF作家のアイザック・アシモフ氏が、晩年のエッセイの中で、「読みかえすたびに新しい発見がある」と語ったぐらい、世界中で長く愛され続けてきた特別な作品です。

この本を愛読書に掲げる作家や著名人は世界中に数多く存在します。

このクラスの作品になると、物語の内容やキャラのスタンスに加えて、そうした部分も考慮しなければなりません。

原作ファンからすれば、アラゴルンが政治目的の宣伝なんかに安易に使えるようなキャラクターじゃないことぐらい、作品を知っているならわかっていて当然だと思うわけですからね。

アラゴルンというキャラ自体がもつイメージやメッセージ性を無視して、ただ「カッコイイから使ってみました」ではすまされないのです。

おそらくスペインの極右政党は、そこまで深く考えずに、勝手なイメージだけでアラゴルンを採用してしまったのではないかと思われるのですが…。

 

 

これは昨今の日本での風潮ですが、難しい内容の本や長い物語は、もっと短く簡単にまとめてほしいとか、マンガにしてくれたら読むのに…というような声を頻繁に耳にしませんか?

本なんか読まなくても、映画を観るか予告編だけでも内容は大体わかるし、まとめサイトやネタバレを利用するというひと達もいますよね。

わからないことがあれば、自分の頭で考えるよりもググったほうが早いじゃん、と考えるひと達も同じくらいいそうです。

今は本が売れない時代だと聞きますが、近代日本人だけが特に文学的素養に欠けていると考える理由はありません。

むしろ子供や学生、大人にも読書習慣のない者が多くなっているのだとすれば、何か理由があるはずです。

すぐに考えつくのは「娯楽要素としての読書の価値」が低下して、スマホの普及によって爆発的に台頭しつつあるwebコンテンツに取って代わられた…というあたりでしょうか。

 

 

娯楽要素としての価値は低下しても、読書にはそれ以外の価値もまだまだあります。

例えば本を読むという行為には、ネット検索の簡略化された表面的な知識のみの入手手段にはない、ある種の訓練的な側面があります。

物語を読むには、集中力に加えて、知らない言葉は前後の文章や文脈から推理するなどして読解力を養ったり、途中で投げ出すことなく最後まで読み通す根気も必要です。

知らない言葉や意味のわからない慣用句が出てきたら、その部分だけを調べてわかった気分になってしまうネット検索とは、そこが大きく違う点です。

こう言うと「それだけじゃない!類義語の使い分けや参考文献なんかも表示されるし、その作品についてだって、色んなひとがそれぞれの見方を書いている」的な反論をするひとがいますよね。

たしかにその通りです。がしかし、それらは結局「誰かの意見や考え方」であって、自分自分の内側から出てきたものではありません。

ネット検索で得た知識や情報と、本を読むことによって自分なりに考えたり見つけたそれとは全く違うものなのです。

 

読書には、ヒントや伏線をどの程度まで読み取れるかで結末の予想がついたり、ミスリードされて予想を裏切られたり、最後のどんでん返しに驚愕するといった楽しみ方もあります。

この部分は映画鑑賞でも同じです。

それを自分自身で体験するのと、ネット検索で表示された誰かのネタバレ体験談を読んでわかったような気分になるのとでは、最終的に同じような感想をもつに至ったとしても、そこまでの過程が異なります。

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映画はちょっと違いますが、読書の場合は、楽しみながら本を読む体験を重ねるうちに想像力や創造力、妄想力なんかが鍛えられることになるわけです。

誰かのネタバレ体験談をいくら読んでも、そんなものは身につきません。

ここを鍛えないことには、頭の中に現実世界とは異なる別の世界を描いたりできないし、それが出来ないまま活字を追い続けるのは苦痛なだけです。

テレビの大河ドラマは観るけれど、長編小説は途中で嫌になって読めないというひとがいますが、これはこの部分に問題があるからです。

 

こういう言い方には語弊があるかもしれませんが、小説を映像化した作品の場合、ドラマや映画には時間的な制約がある以上、結局のところそれは小説のダイジェスト版です。

お気に入りのマンガがアニメ化されたら、原作の大事な部分がカットされていた!というアレと同じことです。

それはアニメしか知らない者にはわかりませんが、原作ファンには許しがたい暴挙だったりしますよね。

なぜそう感じるかというと、原作にはすでにそのひとなりの原作の世界観が確立されているからです。

すなわち1話30分の放送時間や1クール何話の制約があるアニメは、原作マンガをだれかの世界観を元にその時間内にまとめた、原作のダイジェスト版にすぎないのです。

 

映画の場合も同じことです。

映画は登場人物を演じる役者も含めたもっと多くの人々が関わって「完成されたひとつの世界」を映像化したものです。

がしかし、たとえ超大作と呼ばれる映画の場合でも、長くて一作品2時間半ぐらいが限界です。

30分アニメが5回で終了することはまずないことを考えれば、映画はアニメよりもはるかにダイジェスト版要素の高い作品としてつくられているのでしょう。

これを三部作構成にして、全部で6時間から7時間半にまとめても、文庫本を並べれば15センチにもなる物語の場合、原作のかなりの部分をカットしなければ作品になりません。

どこを作品のメインに持ってくるか、どのキャラの見せ場を活かすか、何を発信するのかは、どこをどこまで削るのかの戦いか、いっそ映画オリジナルな展開にもってゆくのかの、大きく2つに分かれるのではないでしょうか。

そうやって創り上げられた映画化作品の世界観は、やはり脚本家や監督の視点や見解が多く反映された「第三者によってつくられた世界観の集大成」になってしまうのです。

 

もっとも、映画には、映画にしかないメリットや世界観もあります。

それについては、映画ファンや専門家がいくらでも意見を発信しているはずなので、ここではなく、そちらをご覧ください。

このブログも、そういう意味ではダイジェスト版なのです(笑)

 

 

世界観に話をもどすと、この「世界観」とは、捉え方や考え方であり、それをつかめる能力をも意味しています。

本の中に出てくる難しい言葉の意味や慣用句をすべて理解できるのと、本に描かれているひとつの世界を包括的に理解して、その全貌を把握できる能力とは別物です。

絵本から始めて児童書、小中学校の図書室の本から《ロード・オブ・ザ・リング》へと進んでいればたやすくできることでも、全部すっ飛ばしていきなり《ロード・オブ・ザ・リング》では、ちょっと無理があるかもね…ということです。

 

とどのつまり、どれだけたくましい妄想ができるかは、どんな本をどのくらい読んで必要な能力を鍛えてきたか、あるいはどんな映画をどの程度みてきてたか…に大きく左右されることになります。

早い話が自分の脳内で超大作映画をつくりあげることが出来るだけの素材や技術を持っているのか、4コマ漫画もどきがせいぜいなのかは、これまでに自身が取り入れてきた情報の質と量と訓練しだい…みたいな感じでしょうか。

残念ながら現段階のwebコンテンツには、質と量ならクリアできても、読書によって得られる訓練的側面やその恩恵まではカバーしきれない、というのが私の見解です。

 

 

ちょっとだけマニアックな話をすると、私は、アラゴルンよりも「原作のファラミア」がヒイキです。

映画のファラミアはいけません。

イケメンかどうかとか、演じた俳優の技量や人気とは関係なく、映画のファラミアからは、「原作のファラミア」にはダダ漏れするほど感じられた高潔さがほとんど感じられなかったからです。

ファラミアについては、ウィキペディアにはこう説明されています。

 

  • 闇の勢力の前に風前の灯同然である人間たちの王国ゴンドールの執政デネソールの息子。
  • 兄は指輪の誘惑に屈したが仲間の為に殉じたボロミア。
  • 思慮深く詩人の心をもつと評される物静かな男であるが、同時にイシリエン地方の野伏部隊を率いるなど優れた戦士としての一面、そして指輪の誘惑に抗しうる強い心をも持つ。

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私に言わせれば、ここには彼の本質についてほとんど書かれていません。

はっきり言ってしまうと、映画のアレは別人で、ファラミアじゃないです(私的見解です)

映画では、ファラミアがフロドとサムを捕らえてゴンドールへ連れて行こうとするんですよね?

最後には根負けして(?)2人を行かせるにしても、なんで彼がそんなことをするのか私は理解不能でした。

映画の脚本家は原作を読んでないのかと、正気を疑いましたね。

 

映画のファラミアは、折り合いの悪いパパのご機嫌を損ねないように、指輪所持者を捕らえて自国へ連れ帰ろうとしたんですか?(1回しか観てないから記憶があいまい💧)

原作では、フロドが指輪所持者だと気づいたファラミアは、事実が露見すれば処罰も覚悟で、自分は何も気づかなかったことにして、そのままフロド達に探索行を続けさせたんですよ?

中つ国が救われたのは、アラゴルン達の作戦の内容を何ひとつ知らなくても正しい判断をくだすことができ、指輪の魔力も誘惑も及ばなかった、ファラミアの高潔さのおかげじゃなかったんですか?

彼が自分のことしか考えられず、指輪所持者をゴンドールに連行なんてしていたら、フロドは絶対に間に合っていませんから。

人間たちの連合軍は、指輪が処分される前に、あの戦いで壊滅しちゃってたんじゃないですか?

なのに、原作ではその高潔さで世界を救ったファラミアが、パパのお気に入りだった亡き兄の分まで働かされて、ガンダルフに「悲傷のあまり死に急いではならんぞ」と忠告されるほど、酷いことを言われてしまうのです。

それでも彼は、父の命令に従って、犬死するのも覚悟で最前線の戦地に赴き、瀕死の重傷を負い、さらに身勝手な父の無理心中にまで付き合わされそうになります。

その先が気になるひとは原作を読んでもらうとして、残念ながら映画のファラミアは、原作ファンの私が納得できるほど正確には描かれていませんでした(と、記憶しています)

アラゴルンはたしかに素敵だし、登場人物が彼に友と呼ばれることを誇りにおもい、彼に剣を捧げたくなる気持ちもわかります。

それでも私なら、アラゴルンではなくファラミアを慕い、彼を救うために命をかけたペレゴンドのような人々のほうにこそ共感します。

 

では、なぜ自分はアラゴルンでなくファラミアに心惹かれるのか……その答えは、文字で記された本の中にしかありません。

本を読むというのは、こういう自分なりの考え方や受け取り方、意見を持てるように、自分で自分を育てることなのかもしれません。

夜空の星を見上げて、星座とその由来を知っていれば、そこは物語の宝庫ですが、何ひとつ知識も情報も持たずに見上げた空は、ただの星空にすぎませんよね。

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あるいは、物語の中の登場人物も、同じように星を眺めたのだろうか、星座を探したのだろうか…そういう空想や妄想も、物語を読んでいなければ出てきません。

 

物語の世界は、ひと握りの高潔な者たちと、彼らを慕い、守り、互いに協力して力になろうととする人々によって成立しています。

現実世界では、その「ひと握り」の存在が高潔であるかどうかは、たいして問題視されないようですけどねw

物語のなかでは、その資格もないのに高い地位についている者や、世界の全てをおのれの掌中に収めようとする存在がいて、平和を守るために、誰かが彼らと戦わなければならなくなることもしばしばあります。

「何のために戦うのか」は不変のテーマとして、これまでも数々の物語や映画の主題に取り上げられてきました。

ネット上には、アニメや映画の戦いのシーンだけを取り上げて、批評家気取りで戦闘シーンの出来の良し悪しだけを語る者が多く存在します。

そこでは「何のために戦うのか」などというテーマは置き去りにされるか、忘れ去られているのが常です。

そういうやり方や感覚が当たり前になってしまうと、「こいつカッコイイから使おうぜ」という発想だけで、アラゴルンを使った見当違いなツイートを世界中に発信してしまったりするのではないでしょうか。

これは「そうなんでしょ?」と決めつけるつもりはなく、あくまで単なる個人的な見解であるとお断りしておきます。

スペインの極右政党を敵にまわすつもりは毛頭ありません。

ただ原作ファンとして、あの不見識なツイートの “戦いを始めよう” にはカッチーン!ときたので、「お前らふざけんじゃねえぞ!」という気持ちを込めて書いてみました(笑)